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楊柳観音像
 高麗仏画と云われ十四世紀後期(高麗王朝末期)の呉道士の作と伝えられる。
 高麗仏画の特色を備えた濃厚な彩色や金泥の多用等数少ない違墨で、高麗王朝滅亡後、李王朝が仏教を排し、儒教を国是としたため、教典や仏画が大量に日本に将来された時か、文禄・慶長の役後に当寺にもたらされたものかは不明である。

金岡用兼像
 功山寺開山金岡用兼の頂相図で室町時代の作品である。
 永正八年(1511年)の年期を持つ金岡和尚自身の賛があり、一部横折れがあるものの保存状態もよく、山口県内に残る貴重な頂相画の一つである。
 山口瑠璃光寺蔵の大庵須益像、金岩東純蔵、桃岳瑞見像の三幅の頂相図は、本図と制作の年代も近く、また様式的にも近い。

毛利秀元像
 長府毛利藩の祖で功山寺の開基となった毛利秀元の肖像画で、没後まもなくの作と思われる。
 秀元は毛利元就の四男穂田元清の子である。文禄元年朝鮮出兵に際しては当主輝元に代ってわずか14歳で毛利軍の総大将として出陣、慶長2年の再度の朝鮮出兵には全軍の総指揮官として出陣し戦功をあげる。文武に優れ、毛利家一門の中でも特に英明な藩主として知られる。
 慶安3年閏10月没。享年72歳。法名智門寺功山玄譽。

大洞覚仙像
 功山寺第二十世大洞覚仙を描いた頂相図であり、筆者は狩野陽信。
 功山寺所有の頂相図では珍しい正面像である。これは黄檗宗の頂相図の様式を採り入れて描かれたものである。
 筆者の狩野陽信は長府狩野家初代察信の子で、狩野芳崖の祖父にあたる。長府狩野家は黄檗宗覚苑寺を墓所としたので、陽信は覚苑寺所有の黄檗頂相図を研究し、本図を描いたのであろう。