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長福寺文書 論旨
 皇太后宮権大進による後醍醐天皇の長福寺知行地安堵の論旨である。
従来、長門探題を拠所としてきた長福寺にとって鎌倉幕府の滅亡は甚だ困惑した状況であった。しかも後醍醐天皇の発した、鎌倉幕府の建立した寺院に対する寺領没収令に長福寺が該当することを避けるためには、何としても当地行安堵の論旨を獲得するしかない状況下にあった。その切実な知行安堵の働きかけにより「皇太后宮権大進」による論旨の形でようやく知行安堵が認められた。

長福寺文書 大内義隆安堵状(日頼寺蔵)
 正平十三年(1358)に、大内弘世が長門守護に補せられて長府に入府し、大内氏の領国支配が始まった。大内氏の領国時代、大内氏が各種宗教、殊に禅宗に対して崇敬の態度を示した事からも、臨在の長福寺には大内氏が大陸から収集した多くの経典類が納められていた。その関係を示すように、現在も大内歴代の安堵状が残されている。

長福寺文書 毛利元就一輝元連署安堵状(日頼寺蔵)
 天文二十年(1551)、大内氏の栄華も家臣陶晴賢(隆房)の謀反により終えさり、防長二国も陶を討った安芸の毛利氏の支配するところとなった。この頃より、長福寺も毛利元就をはじめ隆元・輝元と毛利家より安堵状を与えられる事となった。

功山寺文書 毛利秀元寄進状
 慶長五年(1600)関ヶ原の合戦の後、西軍の総大将であった毛利輝元は、これまでの中国八ヶ国百二十万石から防長二国三十六万石に減封され、それにともなって毛利氏は居城を萩に移した。宗藩移封と共に、毛利支藩として長府藩が設けられた。
慶長七年(1602)に長府藩主を拝命した毛利秀元は長福寺の荒廃を見て、大修理を行った。秀元は壇越寺として、長福寺を父穂田元清の法号である笑山常快大居士をとって笑山寺と改称、宗儀も臨済宗から曹洞宗に改めた。この寄進状はその年号から秀元没年のものである。