功山寺は、嘉歴2年(1327)に創建され、長福寺と号した。開山から数年後には鎌倉幕府が滅亡し、やがて南北朝時代に入る。建武政権にそむいて京都を追われた足利尊氏が、九州に走る途中に立ち寄るなど中央の騒然とした気配が長福寺に持ち込まれた。尊氏が小月村を長福寺に寄進した記録もある。
 九州で勢いを盛り返した尊氏が、ふたたび東上して湊川の戦場におもむくとき、船出したのも長府だった。
室町幕府が成立したあと、長門探題に任じられた足利直冬(尊氏の庶子)が長福寺の傑山和尚に与えた観応2年(1351・正平6)の沙汰状が残っている。当時は政情不安定であり、南北両朝への帰属も豹変をくり返して守護探題は、めまぐるしく交代したが、長福寺への保護は、一貫し中央政権との深い関わりをもった。
長門国守護だった厚東氏が滅び、大内氏の周防・長門統一が実現すると、功山寺は、大内氏の信仰と保護を受けるようになる。文明8年(1476)には大内政弘による寺領の安堵状が、また明応5年(1496)には、大内義興の安堵状が下付されている。大内氏と豊後大友氏との抗争が激化し、九州渡海の基地下関とともに長府が脚光をあびたころである。明応5年7月、義興は、関門海峡での戦闘で討ち取った大友兵の首600を塚に埋め、長福寺の僧侶100人が戦没将兵の供養を執りおこなったが、七堂伽藍を構えた当時の長福寺の規模がこれを物語っている。
 時代が移り、長福寺が戦場となったのは、室町末期の弘治3年(1557)4月のことだった。主君大内義隆を攻め滅ぼした陶晴賢は、大友義鎮(宗麟)の弟晴英を大内義長と改名させて大内家の当主に据えた。晴賢を厳島に破った毛利元就は、軍を山口にむけ"偽主"義長を攻める。敗走した義長は、わずかな家臣をつれて長福寺に入り、ここも毛利軍に包囲されたので、恨みをのんで自刃した。6歳になる陶晴賢の末子鶴寿丸も義長とともに果てた。
 大内氏の命脈は、ここで完全に絶たれ長福寺は、守護大名大内氏の終焉の地、戦国大名毛利氏の出発点となったのである。
 義長らが自刃したのは、鎌倉朝の代表的建造物として国宝に指定されている現在の功山寺仏殿であろうといわれ、その仏殿のはるか後ろの墓地に義長主従の墓とみられる宝篋印塔が3基のこっている。仏殿には室町時代の傑作とされる千手観音像が安置され、天井には、石楠花の絵が描かれており、シャクナゲ寺とも呼ばれた。
 永禄10年(1567)6月、毛利元就・輝元の安堵状などに見られるように、長福寺は毛利氏の保護を受けるようになった。さらに歳月をかさね慶長5年(1600)の関ヶ原の役後、長府5万石の藩祖として入府した毛利秀元(元就の孫)の法号をとって功山寺と改められたのは、慶安3年(1650)のことである。以後2世紀にわたる長州毛利氏の雌伏時代がつづいたのち、功山寺が討幕の発火点となったのも歴史のめぐりあわせというものだった。
吉田松陰の高弟・高杉晋作の名を歴史にとどめた主な仕事は、奇兵隊の結成、功山寺挙兵、第2次長州征伐の幕軍の撃退の3つを挙げることができる。そのなかでも功山寺挙兵は、これが失敗していたら明治維新は何年か遅れていただろうといわれるほど重要な場面である。
 蛤御門の変、4国連合艦隊の来襲によって藩難を迎えた長州藩では、旧守派(俗論党とよばれた)が血の粛清を敢行して、ひたすら幕府への従順をあらわした。幕府も勢いにのって、長州藩の解体を策すという事態を迎える。福岡に亡命していた晋作は、死を覚悟して帰国し藩論回復のため、遊撃隊士などわずか80人ばかりの同志をひきいて俗論党打倒をさけびクーデターの兵を挙げた。その決起の地が功山寺である。当時、京都から落ち延びてきた討幕派の公卿7人のうち三条実美はじめ5人が功山寺にひそんでいた(五卿の間として功山寺に保存されている。)晋作は私兵でない証とするため、五卿にあいさつしたのち挙兵したのだった。やがて奇兵隊のほか諸隊も立ち上がって戦列に加わり、農民・商人など藩内の民衆も決起軍を応援して武士団の俗論軍を圧倒、ついに討幕の藩論を確定させた。
 元治元年(1864)12月15日、高杉晋作が決起したその日は大雪で夜は晴れて月が出た。石段も山門も仏殿の屋根も、中天にかかる満月の光を浴びて白一色に輝くなかを、晋作は愛馬に鞭をあてて時代の夜明けにむかって駆け抜けていったのだ。
 功山寺は桜の名所である。秋の紅葉、また冬景色も美しい。鬱蒼としげる樹木のなかには、樹齢450年と推定される槇の木もある。慈愛にみちた仏の視線のなかを、中世から近世にかける騒乱の日本史が通りすぎた。功山寺は、変転する人間の歴史に劇的な舞台を提供した境内の静まりを今にたもちながら、諸行無常にあふれる風雪のあとを私たちに語りかける西国の名刹である。
長府毛利歴代藩主の墓

元応2年
1320
●虚庵玄寂禅師により金山長福寺(臨済宗)を開山
正慶2年
1333 ●朝廷より知行地を賜う綸旨を受く。
建武元年
1334 ●足利尊氏より小月の地を寺領として、寄進する書を受く。
長享元年
1487 ●暴風雨で山門倒壊。
弘治3年
1557 ●大内義長、毛利元就に襲われ、4月4日谷の長福寺で自刃、大内氏滅亡、
 以後寺も戦乱で荒廃。
慶長7年
1602 ●初代長府藩主、毛利秀元が長福寺を修理し父元清の霊をまつり
 笑山寺一洞雲三庭禅師(曹洞宗)と改称。
慶安3年
1650 ●10月3日毛利秀元死亡 法号「智門寺殿功山玄誉大居士」以後世々毛利家の
 香華寺となり、功山寺と改称。
元禄8年
1695 ●鐘桜の建立。
安永2年
1773 ●10代藩主毛利匡芳、山門を寄付再建。
天明8年
1788 ●10代藩主毛利匡芳、大法堂寄進建立。
天保6年
1835 ●11代藩主毛利元義、経蔵(1799)につづき書院庫裡を寄進。
元治元年
1864 ●4か国連合艦隊来襲にあたり13代藩主、毛利元周は陣営を功山寺に移して指揮。
●三条実美公等五卿が11月17日より2カ月間書院に潜居。

●12月15日高杉晋作回天の挙兵。
明治36年
1903 ●4月仏殿が特別保護建造物に指定。
昭和28年 1953 ●11月14日仏殿が国宝に指定。
昭和41年 1966 ●6月10日木造地蔵菩薩半跏蔵山口県指定文化財となる。
昭和45年 1970 ●3月4日山門が下関市指定文化財となる。
昭和49年 1974 ●3月25日功山寺境内地が下関市指定文化財(記念物)となる。
昭和54年 1978 ●3月1日七卿潜居の間、経蔵が下関市指定文化財となる。
昭和61年 1986 ●11月10日功山寺韋駄天像・千手観音菩薩座像・二十八部衆立像下関市指定文化財
 となる。
平成7年
1995 ●12月19日楊柳観音(軸物)山口県指定文化財となる。